スランプ

2005年7月18日
スポーツなどをしていて、一時的に不調な時期に陥ることです。
スポーツに真剣に取り組んだことのある方なら一度は経験したことのあることだと思われます。
といっても実のところ、ぼくはスランプというものに陥ったことがありませんでした。
水泳は生まれたときからやっておりまして、選手クラスに入ったのが小学校2年生のときだったと思います。
最初は短距離の自由形を専門(といってもこの年齢では専門とは呼べませんが)として練習に励んでいました。
このころはレベルが低かったので、出場することができる大会も年に二回ほどのBC級大会という最低レベルの大会のみでした。
初試合は緊張しまくりで全身がカチコチになって欠伸ばかりしていました(緊張すると欠伸がでるの知ってましたか)。
そしていざレースです。
もちろん初出場の大会ですのでベストタイムがでました。
これが始めです。
そして二回目のBC級大会。
これまたベスト。
年に二回の試合だけでしかタイムを計らないわけではなく、朝練などのときにタイムトライアルをして計ります。
そういうときも毎回ベストがでるわけではありませんが、順調にタイムは伸びていました。
ベストをだす喜びを知ったぼくはさらに練習を積みました。
小学校4年生の頭あたりに地元の近くであったBC級大会へ出場したときのことです。
そのときチームのメンバーでメドレーリレーを組みました。
当初ぼくはバタフライにあたっていたのですが、正直しんどいし好きな種目ではなかったので、そこそこなタイムで泳げて楽というイメージがある平泳ぎにかえてくれるよう、チームメイトとコーチにお願いしました。
そしてその願いは叶えられ、見事、レースで初めて平泳ぎを泳ぐことになったのでした。
タイムは50?が44秒でした。
これは専門種目でない者にしたらなかなかのタイムだったようで、それをみたコーチはぼくを平泳ぎの選手として育てることを決めたようでした。
その日を境に、ぼくはコーチに平泳ぎの基礎からみっちり教えて貰いました。
そして僕は一年という月日を得て、大阪府下でおこなわれる規模の大きな大会に出場することになりました。
その大会のことは今でも鮮明に覚えています。
順当にタイムの伸びていたぼくは50?平泳ぎの予選で41秒のベストタイムを出し2番で残りました。
こんな規模の大きな大会でメダルを狙える位置にいることを経験したことがなかったぼくは実感の湧かないまま有頂天になっていました。
そしてレースというものの大切さが分かっていなかったぼくは決勝レース直前までレースを終えたチームメイトとストレッチひとつせず遊んでいました。
そして結果は5位。
予選2位で通過したのに決勝では5位。
周りのタイムがあがって落ちるのなら分かりますが、決勝タイムは1秒落ちの42秒。
ぼくはショックをうけ、そして後悔しました。
何故あそこでストレッチをして集中していなかったのだろうか。
またとないチャンスだったのに。
ぼくはこの日以来、レース前の一時を大切にするようになりました。
翌日行われた100?平泳ぎでも予選は3位で残ったのに決勝は4位と、またもや表彰台を逃してしまいました。
しかしこれは周りの人たちがタイムをあげてきたので仕方がなかったと踏ん切りをつけました。
これを教訓とし、さらに練習を重ねてゆきました。
大会を重ねるごとに、50?、もしくは100?のどちらか一方のベストタイムを確実にあげていきました。
そして11歳クラスのときに、大阪府と京都と兵庫と奈良あたりのチームが集まった、大きな規模の大会で念願のメダルを手にすることになります。
この試合はJO(ジュニアオリンピック:全国大会)出場者は出場していなかったので、ぼくは上位に入ることができたのですが、そういう理由があったものの、やはりうれしさは隠せず、今も思い出として大切にそのメダルは保管しています。
11歳から12歳へと変わる小学六年生の春には春の選手権で見事JO標準タイム(ジュニアオリンピック:全国大会への出場権)を切り、出場権を得ました。
しかし神のイタズラというものでしょうか。
ぼくは五月生まれで、JOが行われる八月にはすでに12歳へと年齢クラスがあがってしまうのでした。
そしてぼくは出場権を得たものの、出場する機会を得ないまま、歳をひとつ重ねました。
小学六年生になり、塾の回数も増えましたが、勉強(塾)から解放される練習日をとても楽しみにしていました。
そして練習をもっとしたいという強いハングリー精神をえました。
だからかは分かりませんが、練習量が減ったにもかかわらず、少しずつではありますが、着々とタイムは伸び続けていきました。
受験を終え、久しぶりに泳ぎにいき、一週間ほど経った頃に50?平泳ぎのタイムを計ることになりました。
それまでのベストタイムは37秒でして、きっと相当落ちているんだろうな、と思いながら泳いでみたところ、なんと正反対の35秒という二秒ベストをだすことになりました。
ぼくにはスランプなんで存在しない。
どこまでもタイムは伸び続けるんだ。
そう思っていました。
そして小学校から中学校へと上がる中学一年生のとき、昨年と同じ春期選手権へと出場し、そこでもまた、12歳のJO標準記録を突破し、またもや見事JO出場権を得たのでした。
しかし運命は昨年と同じ。
そのころは自分を早くに生んだ母を恨んでばかりでした。
中学校に入り、スイミングスクールでの練習に加え、さらに学校での練習も入るようになりました。
もちろん体がガタつくぐらい疲労がたまりましたが、おかげて一年の学校の大会では出場するたびにベストタイムをだしていました。
冬場、スイミングのコーチともめ、スイミングを止めました。
今思えば僕は辛い練習から逃げ出したのでしょう。
そしてこれがぼくの水泳人生を大きく変えました。
今まで順調にタイムは伸びてきたにもかかわらず、二年生で出場した大会では一度もベストタイムがでることはありませんでした。
ぼくは初めて「スランプ」という状態に陥りました。
ショックでショックで、どんだけ頑張ってもタイムが伸びることはありませんでした。
そして二年の最後のブロック大会で、短水路ながらもようやくベストタイムを出すことができました。
しかし正直、未だにそのスランプ状態から抜け出せているとは思っていません。
なぜなら未だにタイムが伸びていないからです。
試合の回数は年に経ったの五回。
今年はまだ一回短水路で行っただけです。
だから伸びていないとはいいきれません。
でも不安がいっぱいです。
次の大会は大阪府大会(OPEN:学年関係なし)です。
現時点ではぼくのなかで最大にして最高の大会です。
上に進めるのはこの大会だけです。
だから尚更気合いが入ります。
そしてスランプ状態から抜け出せているかどうかという不安も募ります。
でも頑張ります。
そしてこれで頑張ることの結論が分かるのだと思います。
だから頑張ります。

長くなりました。
スランプから話題はずれていきましたが、結局スランプというのは心理的なものから陥るものだと思います。
そしてそれを抜け出すためには自分に自信を与えることが必要なのです。
ぼくの場合はその自信を「練習」から貰いました。
激しい練習をすることで、「自分はこれだけやったんや。やからタイムはでる!絶対でるんや!!」そう自分に言い聞かせています。
それが実際にタイムとして現れるかどうかは分かりませんが、ぼくはただそれだけを信じて、頑張ります。

「頑張る」
これほど素晴らしいことはない

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